宇品波止場公園の「陸軍桟橋跡記念碑」建造した寺岡石材工業。平和を願う「近藤芳美歌碑」をご紹介。

11月27日 平成10年に弊社が建立しました「陸軍桟橋跡記念石碑」の状況確認の為、当公園に視察に参りました。天候は良好!多くのご家族が公園内で戯れ遊んだり、お弁当を広げたり、釣りを楽しんだりされてました。三角の尖ったステンレス製の巨大なモニュメントはこの公園を象徴とする「パラダイスの塔」です。ここは宇品の1万トンバースでもあります。 自然石に横書きで、「宇品波止場公園」と入口に据付けています。 昭和61年9月30日まで「宇品線」として、ここまで路面電車が通ってた記を刻んだステンレス表示板 海上保安庁の船が2隻停泊。湾内で多くの家族が釣りを楽しんでいます。戦時中、ここから多くの若者が出兵していた様です。 線路が当時のまま残されています。さて、右手に見えるのが、平成10年(1997年)当時の広島市長 平岡敬(ひらおかたかし)氏より依頼を請け、記念石碑製作施工したのが寺岡石材工業です。40代くらいの写真家さんが石碑撮影をされてました。歴史探訪趣味の方かもしれません。
この歌の作者は「近藤芳美(こんどう よしみ)」先生です。戦後短歌の論作両面の第戦後の歌壇を牽引する歌人として活動し、「朝日歌壇」の選者を務めたことで知られるほか、建築家としての顔も持つ歌人です。文化功労者

陸軍桟橋とここを呼ばれて還らぬ死に兵ら発ちにき記憶をば継げ

宇品に陸軍運輸部が置かれ、一筋の石組みの突堤が沖に向かっていた。広島の市民はそれを陸軍桟橋と呼んだ。そうして日清戦争から太平洋戦争にかけて、兵らはこの突堤から沖に待つ輸送船に乗り移り、遠い大陸と島の戦場に送り出されるのが例となっていた。彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻らなかった。

戦争が遠く過ぎ、あたりは埋め立てなどにより姿を変えたが、今、埠頭の片隅の岸にわずかにかつての面影をとどめる。

わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がなければならない。

一九九八年(平成十年)十二月 近藤芳美 記

【石材】高知県赤簾石(天然石)

後記)据付から26年経過していますが、地面をランまーで幾度頑丈に固め(寺岡社長自ら作業)台座も厚み30cmと分厚い一枚台座石を敷いている為、傾きや不具合は見受けられませんでした。また、多くの参拝者さんが掃除されているのか当時と変わらずとても綺麗で状態が良く保っていました。